今日、仕事中に、日本人の人にいきなり、ものみの塔の冊子をもらってしまった。
ほら、あの家にピンポーンってくるやつですよ。
日本語しゃべれますか?って英語で聞かれたので、道を聞かれるのかと思ったら、びっくりした!
ロンドンにもいるのねー。って、よく考えたら、いるよね。
それから家で夜中にチエちゃんとソンさんとその話になって、
そのあとソンさんが仏教のメディテーションにいく!と言い出した。瞑想の訓練。
そして瞑想について熱く語った夜中の1時に。
瞑想とは、
『瞑想は2種に大別することも可能で、それらは例えば"肯定法"、"消去法"とも呼ぶこともできるであろう。
"肯定法"とは、神や仏のイメージ、聖なるフレーズ、特定の文字などを心に描き、
それと心的に融合する方法のことである。
"消去法"とは、究極的な存在だけを出現させるために、それ以外の全てのイメージを消してゆく方法である。
瞑想には、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえて、高次の意識レベルへと到達することを目的として、その方法が組み立てられているものが多い。
例えば、仏教哲学・仏教心理学では意識は「八識」に分類され、その中には「末那識」「阿頼耶識」と呼ばれる層があり、仏教の瞑想には、そこへと到達するための極めて合理的、システマティックな方法が含まれている。
ウィキペディアより。』
あたしはここで言う消去法が絶対的に必要だと思う。
あたしの頭の中は、いろんな小さな問題から大きい問題まで、
クッキーの材料みたいに、すべてを一つのボウルでかき混ぜて、
それがドロドロ溶けてしまって、一体どこまでが大きい問題だったのか、小さい問題だったのか自分でも分からなくなってしまって、その一緒に溶けたまんまの状態。
あれ?これって、クッキー作るんだったっけ?
それともまさか、お好み焼き作りたかったんだっけ?
みたいな感じになってると思う。
もし瞑想のトレーニングをすることによって、
そのドロドロの溶けたのを、ザルみたいなの入れて、フィルターをかけることが頭の中で出来るなら、大きい固まりだけをそのフィルターの中にキャッチすることが出来るかも?
それで、小さないらないドロドロは、はい、さよならーって乗らないバスみたいに見送れるかも?いつか乗るかもねってくらいの気持ちで。
ソンさんも言ってたけど、あたしとかソンさんみたいな性格の人はきっと少し間違えたら考え過ぎて、少しおかしくなっていくかも。
何が自分にとって必要で、または必要じゃないかの区別がつかなくなって、ただ考え込んでるだけの状態になってしまうのは少し怖い。
少しも終わりに近づいてない悩みはそれだけで悩みになりうると言うか。。
だから、自分の中に沈める訓練をして自分の頭を整理、コントロール出来るようになる訓練が必要なのかもしれないな。
なんか、頭の中に自分で入っていって、工場を作るような感じなのかな?
それとも幽体離脱して沈んでいくみたいな?
この性格で一生生きていくなら、そーゆー、どうやって自分をコントロールして、いい場所に連れて行くかも訓練しなくちゃいけないと思った。
どうしたってこの心配性は変わらないのだから、だったら少しでもその心配の種を減らすように出来たら、そしてそれは、苦しい気持ちや嫌な考えを、心に穴掘って埋める感じで一時的に消すんじゃなくて、こう、はい、またねーって感じで、コンベアベルトにはい、っと置くような感じで出来たら、、と思う。
これって瞑想に期待しすぎ?
でもこんなことが頭の中で出来るようになって、いい考えだけをキャッチ出来たら、すごい。
って、この話しながら、これって、ねじまき鳥の中の主人公みたいと思った。
井戸の中で、真っ暗な中で、自分の中(あるいは自分の夢の中?)に自分で入って行って、少しづつ何か問題の核に近づいていく。
しかも今またねじまき鳥を読み返してる最中で、このメディテーションの話がソンさんから出たので、少しびっくり。
これはメディテーションの訓練を受けろってことなのかも。
万引きと冷戦を繰り返したり、ゲイと踊ったり、カギを忘れたり、瞑想の話をしたり、なかなかすごい一日でした。
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